沿革
金子商店の設立 初代 金子留五郎
弊社は、1859年頃に湯島天神近くより、現在の本郷に移り住んでまいりました。桶屋として営み、木を鉋で削り、ヤスリなどで調整し、室で乾燥させ、お鉢(米びつ)や風呂桶を販売する仕事をしておりました。
近所に不幸がありますと、職人が棺おけをつくり提供していたのです。
1888年、弊社初代金子留五郎は、「祭具提供業」を創めました。当時は葬儀社というカテゴリーはなく、製作した祭具や道具を、大八車で現場まで運び、貸し出し、祭事や儀式が終わると片付けるという業務形式だったようです。
留五郎の仕事は、だんだんと軌道にのり、本郷町の不幸には「金子商店」という信頼を得るようになってきました。同時に「祭具提供業」だけでもなんとか生活ができるようになり、家業としてだんだんと規模を拡大し、近所にある「順天堂病院」関連の仕事をいただけるようになってきたのです。
金子商店の発展 二代目 金子金次郎
昭和の初期に王子の畳屋から、二代目金子金次郎が「金子商店」に婿養子として迎え入れられました。留五郎は、大田区雪谷に「荏原病院」ができるという情報の元、本家を長女の夫金次郎に任せ、自分は分家し、現在の「金子式典センター」を開業します。
二代目には商才があり、次々と規模を拡大、都内でもめずらしい霊柩自動車を導入、霊柩車業を確立します。また、花環業も開始し現在の「葬祭業」としての「金子商店」の基礎をつくりました。しかし、時代は戦争による混乱期へと突入いたします。
当時の金次郎の日記を読みますと、木材や物品が配給制になった事、職人を「お国のために」兵隊に送り出した事、家業の存続を真剣に考えていた事などが綴られておりました。熟慮の末、金次郎は「金子商店」だけの存続だけではなく、同業及び関連業の存続も視野に入れ、「東京社」(昭和22年解散)という共同葬儀社を立ち上げます。業界の生き残りをかけて奔走していたようです。
戦後になり、日本が落着きを取り戻し、高度経済成長期にともない業界のさらなる発展を目指し、金次郎は同業者5名とともに、東京都葬祭業協同組合を設立します。現在では、組合200社の大組織となり、なお精力的に活動しております。
金子商店の継続 三代目 金子文雄
昭和55年、金次郎の逝去にともない、三代目金子文雄が後を継ぎます。金次郎の対外的な活動に比べ、文雄はお店の暖簾を守る事を第一義といたしました。幼少よりの丁稚奉公で培われた商売勘は、派手さより堅実、儲けよりも義、商売の拡大より継続をよしとしました。我々も先代の下様々な教えを請いました。文雄は、関連業者を変える事を好みませんでした。より安く品質がよければ、取引先を変える事が現代のビジネスにはかかせませんが、文雄はビジネスより義の大切さを我々に教えたかったのだと思います。
文雄は「花環」の職人でしたが、花環が現在の様に少なくなると、業界に先駆けて「生花祭壇」を導入したり、「会葬御礼」の粗供用品を考えたり、現在も文雄の功績の下、商売をいたしております。平成7年に新社屋兼自宅が完成、4代目の私にすべてをまかせ、事実上引退をしておりましたが、平成19年5月11日逝去いたしました。
金子商店のこれから 四代目 金子茂雄
夏目漱石の「草枕」の冒頭、
智に働けば角が立つ。情に棹さば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
それは初代の頃から変わらぬ真実でしょう。時代とともに金子商店も様々に変遷してまいりましたが、先代達の努力の下、現在の金子商店がある事は間違いありません。時代には逆らえぬ空気がありますが、義に徹するのでもなく、ビジネスに徹するのでもなく、その「中道」を行くことにより先代達が残した意志は汲み取る事が可能になるのではと思います。
至らぬ点はどうかご指導くださいませ。
本郷金子商店株式会社 代表取締役 金子茂雄